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春のスペースが決まりましたね。うう、原稿やらなきゃ!!
兎に角赤髪!それからマルエー!頑張って2冊出したいなぁ。
いつもはゲンコのお供はジブリのDVDなのですが、最近はもっぱらMJです。
MJはあんまり歌詞とか考えないで聞いていたのですが(それもどうよ)DVDに字幕が付いているので見ていると結構頓珍漢で面白いです。
洋楽は良く聞いてみるとわけわかんないコト言ってること多い。生活習慣の違いですかねー。

さて、懲りもせずに最近の本誌についてアビがちょっと思うことなどを。


先日宣言したように、もうアビは「エースは生きてる」っちゅう前提で話を進めていきます。ご了承くださいませ。

前に私は今回の流れに違和感を感じる、と書いたのですが、その違和感についてだらだらと考えていたのです。
 で、一つの考えにたどり着いたのですが、アビの違和感の正体は「親子」ではないかと。

 もし、エースが生まれてくることを望まれない子だとしたら……つまり、ロジャーはルージュがエースを身ごもったことを知ってルージュを捨て、ルージュもまた自分を捨てた男の子を産むことを疎み、その結果エースが他の人間の手によって育てられたという過去があったとして、そしてそれをエースが知っていたのだとしたら、たぶん私はエースの死をあまり抵抗なく受け入れていたと思うのです。(もちろん死んでほしくないという気持ちに変わりはなくとも)
 その生そのものを実の親に望まれず、その結果「白ひげ海賊団」と言う居場所を見つけ、ルフィという弟を得たことである意味での満足(なんだか言葉がおかしいのですが上手い言葉が見つからない)を得て死んだ、と言うのであれば、まだ納得がいくのです。

 しかし、実際にはロジャーはエースが生まれることを喜び、ルージュもまたロジャーの子を命を掛けて産みたいと望んだ。二人は心からエースの誕生を望み、生きていれば誰よりもエースを愛したはず。
 以前書いたバギーについての考えとも重なる部分があるのですが、やはりその過去があるにもかかわらず、それを知らないままエースが最後までロジャーを憎んで死んでいくなんてこと尾田先生はしないと思うのです。
 インぺルダウン編から現在に至るまでのシリーズのテーマは「家族」であり「親子」であり「生命」だと私は思っています。だとすれば、そこに決着をつけないまま、ただルフィの精神的成長の一過程みたいな流れにするのは、今までのワンピの展開からしても考えにくい。

 尾田先生は白ひげとエース(を含む息子たち)によって「血は繋がらなくても真の親子になることは可能である」と言うことを描いたのであれば、「共に生きることはできなくても親として子を愛することができる」と言うことをロジャーとルージュによって描こうとしているんじゃないか、と。

 もちろん、全てはエースが生きてロジャーの想いを受け止めることが前提の話なのですが。
 それに、尾田先生は私が考える程度の浅い考えではなく、もっとすっごい展開を用意しているかもしれないけれど。(と言うかその可能性の方が高いけどね、なんたって尾田先生だもの)
 なんにしても、この違和感が払拭されない限り私はエースは生きてると信じるぞ!!!

 ああもう、また長くなった―……頭の中が整理できてないからだな。
 もうちょっとシンプルかつ分かりやすい文章が書けるようになりたいねー。

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